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Story Vol.18

軽やかさと存在感を確立したユニバーサル時計

今や、レムノスを代表する時計である「RIKI CLOCK」。その誕生は、タカタレムノス創業者の高田博社長と渡辺力氏の偶然の出会いから始まりました。二人の情熱の詰まったこの作品について、渡辺力氏のサポートをされていた山本章氏にお話ししていただきました。

[文: 山本 章]
Lemnosを代表する時計である「RIKI CLOCK」の
誕生について、渡辺力氏のサポートをされていた
山本章氏にお話ししていただきました。

左:渡辺氏 / 右:山本氏

時計のデザインは、使う数字の書体を
“見つけた”時点で8割方終わっている。

60年代からコパルのデジタルクロック、和光の特注クロック等を手掛けていましたが、その過程で「パーソナルクロック」という新しい概念(当時クロックは主に贈答用で嵩の張る高価なものがほとんどであり家の中心にドンと据えられていたが、日本人の生活も変化し、個の時代、四畳半空間にも合うスマートでモダンなクロックが必要)に至り、70年にセイコー(当時 服部時計店)より「小さな壁時計」を世に出しました。

「時計のデザインは、使う数字の書体を“見つけた”時点で8割方終わっている」とまで言っていたように、数字に対するこだわりは凄まじいというほどでした。ひとつの書体で0から9まですべてバランスよく整っているものは意外に少なく、近くで見て良くても離れて見るとダメな場合、円形に並べてみるとまた違った見え方になり、選んだ後で幾つかの数字を修正することもあります。そんな中で正に発見したのがリキクロックにも使われている「CBS DIDOT」です。

70年代初め頃、友人のグラフィックデザイナー原弘氏がアメリカから持ち帰った本に出ていたその書体は、CBS放送のCI戦略として副社長兼アートディレクターであったルウ・ドーフスマンの依頼を受け、フリーマン・クロウによってデザインされたものでした。極端だけど優雅な太細のバランス、遠目に見ても判別性が高く、全ての数字が整っているこの書体にほれ込み、CBSの許可を取り、時計のデザインに応用していきます。
(一説には“素晴らしい書体なので時計の文字盤に使いたいが、問題があればその旨連絡してほしい”という手紙をCBSに出し、返事が無かったという)

幾つものクロックをデザインしていきますが、時計自体がまだ高価だったこと(70年代と今の価格がほぼ同じ)、モダンデザインに対する認識が低かったことなどあり、建築家やデザイナーに愛されながらも次々に生産中止となり80年代後半に一度量産クロックのデザインは終焉しました。

Lemnosと始まったクロックデザインは
偶然の出会いから。

その後も個人的に時計のデザインを続け、松屋デザインギャラリーの展覧会に出品したりしていました。

1999年、セイコーウオッチ(株)は自らの遺産を見直す活動の中で渡辺力に注目し、デザインを依頼、再び時計の仕事が始まりました。書体を厳選し、200を超えるスケッチを重ねたうえで最初の製品はやはりCBS DIDTでした。同時に研究を続けていた円を使った実験的なモデルも出しています。時代は「ユニバーサルデザイン」、見易さも大きなテーマでしたが「見易いなんて時計としては当たり前のことで、敢えて言う事じゃないんじゃないの?」と言えるだけのキャリアがありました。評判は上々で、シリーズとしての継続が決定し、現在に至っています。

その一方、偶然の出会いからタカタレムノス高田社長の熱意がありクロックのデザインが始まります。

2002年富山デザインコンペの表彰会場で、大学の先輩である澄川伸一氏から高田社長を紹介していただき、雑談の流れから新人のクロックデザイン提案について伺うと「今は時計単品ではなく、トータルデザインの中で取り組みたい」とやんわり拒否。ところで最近ウオッチで時計デザインを再開した渡辺力さんがクロックのデザインにも・・・と話し始めるや否や「ソレには興味がありますね!」。
とにかく相談してみます、と帰って1週間も経たずに「アノ件はどうなりましたか!?」と電話があり、それでは新宿の喫茶店で打合せを、とトントン拍子に話は進んでいきました。
後から聞いたのですが、ひとつは当時レムノスの新しい柱となりうる製品を危急に探していたこと、そして新人に対しては「時計のデザインなんて簡単そうだから、取り敢えず挑戦してみるか」的な提案も多く、あの程度の断りは挨拶という感じで、事実粘り強くチャレンジし続けるデザイナーには真摯に対応しておられました。

「軽やかさ」のイメージから
数字の書体はBERNHARD TANGO
枠はプライウッドを採用。

「軽やかさ」をイメージしていた渡辺力、数年前に発見、実現したプライウッドの枠の可能性を模索していた高田社長の思いが一致して、リキクロックが誕生しました。

何度も原寸大スケッチを作っては壁に貼って眺め、修正を繰り返し、さらには発売後にも細かな修正で文字盤の印刷版を作り直したりしました。当時はイメージに近い既製品の針を使うことがほとんどでしたが微妙なサイズには対応できず、多くのパブリッククロックをデザインしてきた経験から単純切断のローコスト特注針を使う工夫で、数字の次に大切な文字盤のバランスを実現できました。
「軽やかさ」から数字の書体はBERNHARD TANGOを使い、また通常白黒反転などのカラー展開するところ「必要なし」としたのも潔い決断でした。

実施設計で高田社長とやり取りするなか印象的だったのは、文字盤のデザインにおいて円形を基準とする幾つもの要因(時分のキザミ、針、文字など)があるのですが、CAD上ですべての中心点が揃っていることに感心されました。気を抜くと微妙にズレてしまうことも多いようですが、機械設計を専攻された社長にとってこのような細かいコダワリ、そこまで気付くか!?という目配り、一方で文化的理論的にも溢れ出る「時計愛」は随所に現れました。

インテリアクロックを一流のデザイン製品へと押し上げた功績は渡辺力に劣らずと言っても過言ではないでしょう。

満を持してデザインされた、
CBS書体を使ったクロック。

製品はとても良い出来で、渡辺力、高田社長ともに満足、すぐに第2弾の話になり、満を持してCBS書体を使ったタイプをデザインします。この書体を、特に大きなサイズで使うとその迫力は想像以上で、シリーズとしてプライウッドの枠に納めるためにバランスに特に苦労した思い出があります。

高田社長の思い入れも強く、最期に迷った針の根元の長さを自らの意見で2ミリほど長くしたことは、後々「よく口を出せたなとドキドキだった」と回想されていました。

結果、快い重さの「存在感」があるプライウッドクロックとして「軽やかさ」と対になる作品となります。

氏にとってのライフワークは
時計のデザインでした。

新しい企画、例えば「小さな時計」は樹脂型への投資が大きいこと、渡辺力の愛する素材「銅」を使った時計は扱いが難しく高価なことなどでペンディングされていたのですが、リキクロックへの評価の高まりとともに、実現されていきました。

実はプロダクトデザイナーとしての渡辺力はヒモイス、段ボールスツールをはじめ、時計デザインについても作品の評価は高いのですが、時代の先を行き過ぎたためか、当時はあまりヒットに恵まれませんでした。しかしながら、時計のデザインをライフワークと捉えていた渡辺力にとって、晩年にそのデザインのチャンスを再び掴みまた時代が追いつき、現在においてはウオッチ、クロック共に大ヒットしていることはデザイナー冥利に尽きると思います。

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Riki Watanabe

(1911 - 2013)東京高等工芸学校木材工芸科卒業。母校助教授、東京帝国大学(現東京大学)林学科助手等を経て、'49年日本初のデザイン事務所を設立。東京造形大学室内建築科、クラフトセンター・ジャパン、日本インダストリアルデザイナー協会、日本デザインコミッティーの創設に深く関わる。京王プラザホテル、プリンスホテルなどのインテリアデザイン、ヒモイス、トリイスツール等の家具、また壁時計に始まり日比谷第一生命ポール時計などパブリッククロック、ウォッチまで時計の仕事はライフワークとなった。ミラノ・トリエンナーレ展金賞、毎日デザイン賞、紫綬褒章など受賞多数。2006年、東京国立近代美術館にて「渡辺力・リビングデザインの革新」展を開催。